« いよいよCOMSAT配布です(今週限定) | メイン | 4月29日(火・祝)まで平常授業あります! »

世界史に纏わる様々な話その2

第2回 私が知っている「ダライ=ラマ14世」について《後編》

 1949年の中華人民共和国の成立後、中国共産党はウランなどの地下資源にめぐまれ、地熱・水力・風力・太陽光エネルギーなどが豊富なチベットに対して、1950年「チベット人民を外国の帝国主義から解放する。」との名目でチベット進駐の声明を発表しました。チベット政府は宗教弾圧をおそれて、これに強く反発しましたが、1951年10月、3万5000人の人民解放軍(中華人民共和国の軍隊)によってチベットは侵略されるにいたりました。同年締結された「チベットの平和的解放方法に関する協定」では、外交権を奪って軍をさらに進駐させた上で、チベットの地方自治とダライ=ラマの維持をみとめ自治区準備委員会を発足させました。

 この間、中国政府はダライ=ラマ14世を北京に招き懐柔を計っています。当初、ダライ=ラマ14世もチベットの近代化の必要性を強く感じていたこともあって、中国との連携を考えたこともあったようです。しかし中国政府の「宗教は毒、宗教はアヘンである。」との見解にやがて失望していきます。この間にも中国政府は自らが唱えた「民主改革」によって、様々な宗教弾圧、徹底した同化政策を行っていきました。チベット国内にあった寺院や僧院の9割が略奪破壊され、15万人いた僧侶は現在、1400人程度になっていると言われています。また人民解放軍の進駐以来、極度の食糧不足に見舞われ多数の餓死者もでたと伝えられました。

 1959年3月、このような状況下で、チベット人の反中国感情がついに爆発し、首都ラサのノルブリンカ宮殿を取り囲んで、これまでにない大規模なデモが発生しました。後世、「ラサ決起」といわれた事件です。この時ダライ=ラマ14世はチベット独立を宣言しますが、圧倒的武力の中国軍によってラサは制圧され、インドへの亡命を余儀なくされました。インドでは1950年の中国軍のチベット侵攻や1959年の反乱鎮圧に警戒を強めました。そして国境問題に端を発して、1962年には大規模な武力衝突にまで発展した中印国境紛争が起こっています。一方中国側はその後ダライ=ラマ体制を否定し、1965年にはチベットを自治区へと編入しました。

 その後ダライ=ラマ14世はインドのダラムサラにおいて『亡命チベット政府』を樹立し、10万人以上にのぼるチベット難民の受け入れと、チベット文化伝承のための学校設立に奔走しました。また1963年に『チベット憲法』を策定し、1987年には『5項目和平提案』を中国に対して提唱しています。そして亡命から今日にいたるまで祖国へ帰国することなく、チベット独立のシンボルとなっています。

 ダライ=ラマ14世という人物は、宗教家でありながら非常に現実的な考え方を持ち、メディア対応も柔軟で気さくな印象をうけますが、彼のゆるぎない理想とその実現のための闘いは想像を絶する苦難の道のりであると考えます。彼は武力闘争ではなく、非暴力の政治・外交によってチベット解放を目指しています。ダライ=ラマ14世は難民達に「中国人を憎んではいけない。中国人だって罪の意識を感じているはずだ。」と説いています。また「中国の人々はいつかきっと気づいてくれるはすだ。私はそれまで決してあきらめないで行動し続けるつもりだ。」と述べています。1989年ノーベル平和賞を受賞した彼は、記者のインタビューに「チベット独立後、私は普通の市民になりたい。(1992年に表明)」と答えました。

 文責:明石@世界史
 From なんでも部屋

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.up-edu.com/mt/mt-tb.cgi/1890

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)