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2009年04月28日

Biological Stories<第63回>


  第63回 オゾンのにおい

 中学校の頃、近所に「オゾン風呂」を売り物にしている公衆浴場がありました。
 なんでもオゾンとやらは森林に充ち満ちている不思議な気体らしく、これを胸一杯に吸い込むと健康になれるのだとか。
 そういったわけでその風呂屋はオゾン発生装置とやらを導入し、浴室内をオゾンで満たしていた、…そうです。
 我が同級生たち間ではいったいどうやってオゾンをつくっているのかが話題になっておりました。もちろん本当にオゾン風呂なのかを疑う人もいました。

 なにしろその風呂屋、風呂屋であるにもかかわらず石けんのにおいなどよりも強く、生魚のような何ともいえず生臭いにおいが漂っているのです。僕も含めてそこを利用者してる人たちはずいぶん変な風呂屋だなぁなどと噂しておりました。
 当時はネットなどもありませんし、何より中学生でしたので化学の専門的な本も身近にはありませんでした。信じるに足る資料が何もないので、結局何か正しいのかもよくわからず、疑問は疑問のままでした。

 …時は流れ。
 さて先ほど引っ越しの荷物の荷ほどきをしていましたところ、以前に購入した「化学雑話」なる本が出てきました。
 何気なしにそれを手に取ってみるとその本の「オゾンのにおい」の項目には

                     「特異な臭気がある」

と記述が…。
 さらに正確な資料を求めてネットをさまよってみたところウィキペディアに

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
オゾン (ozone) は、3つの酸素原子からなる酸素の同素体である。分子式は O3 で、折れ線型の構造を持つ。腐食性が高く、生臭く特徴的な刺激臭を持つ有毒物質である。大気中にもごく低い濃度で存在している
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

との記述を発見しました。
あの何ともいえず生臭いにおいはどうやら本当に「オゾン」のものだったようです。
 これで少なくとも、あの風呂は本当にオゾン風呂だった事が確実になりました。
 お風呂屋さん、疑ってごめんなさい…。

さてオゾンのにおいがわかったところで「化学雑話」を読み進めていくと 

「オゾンはその強力な酸化作用を利用して空気および飲料水の殺菌・浄化・油類の漂白などに広く用いられている。しかし毒性が強いので濃いものは呼吸器をおかし、薄いものでも長時間吸入すると危険であり、注意を要する」

との記述が…。


 …どうやら僕は、わざわざ金を払って、毎日風呂屋に毒ガスを吸いに行っていたようです。

ああ…。

(Biological Stories<第63回>終わり。文責:上田@生物)
  
  
From 住吉校の部屋
 

2009年04月27日

休館期間前の月曜日です。

 こんにちわ、松本孝です(^^)

 今週木曜日(4月30日)から休館期間に入ります。
 この間は平常授業がないので、3月〜4月授業内容の総復習をする良い機会です。各科目の講師から勉強のアドバイスをもらって、有意義な時間が過ごせるようにしましょうね☆

<高1、2生へ>
 休館期間後に第1回到達度判定試験があります!試験まで2週間きりましたので、ちゃんと計画を立てて勉強するようにしましょう!

<高3生へ>
 この休館期間が一つの山になります。上にも書きましたが、この間に3〜4月内容の復習を完璧にしてしまおう!そうすれば、5月以降の学習がかなり楽になりますよ(^0^)

PS 先週暖かい日が続いたと思ったら、急に寒くなりましたね(>o<)
 いつになったら本格的に春になるのでしょうね・・・(^^;
 皆さん、風邪には十分注意をしてください。

 以上、松本孝でした♪


From 三田校の部屋

2009年04月22日

Biological Stories<第62回>

第62回 神の言葉(2)

こんな時代に生まれ合わせた者すべてにとってそうじゃとも。

しかし、どんな時代に生まれるかは、決められないことじゃ。
わしらが決めるべきことは、与えられた時代にどう対処するかにある。
  
        J.R.R.トールキン著 「指輪物語」より


 経済のつっこんだ記事は書かないと決めたので、経済ニュースはあまり見ないように心がけているのですが、やはり無意識に見てしまいます。
 先日下の内容を報じた記事を読み、上に引用した小説の一節を思い出してしまいました。 
 某国で流動性不足(信用収縮による貸し渋りと、その結果引き起こされた現金不足)を解消しようと大量のキャッシュを供給したため過剰流動性が生じており、中央銀行がさらなる追加資金を投入すれば状況をさらに悪化させる可能性がある、と某国の財政の担当大臣が認識を示したというのです。

 ところが僕の見るところ、現金があふれるほどの量的緩和がその国で行われたとはとても思えませんでした。
 察するところ、大けがで大出血をしている負傷者が、せめて重要部分の血圧を保とうと末梢の血液を中枢部へと集めた結果、中枢部で血液(現金)があふれてきた、と言った現象が起こったように見えるのです。

 現時点ではこれは一国で起こっている現象に過ぎません。しかし三ヶ月後、半年後にはこれと同じ状況が色々な国で見られるようになっているかもしれません。
 あまり酷いことにならなければよいのですが…。

 日本の場合、現在世界中に蔓延しているのと同じ状況をバブル崩壊時に経験している訳で、いわゆる「バランスシート不況」がどういうモノか深く理解しています。
 今度は前回の経験をふまえて金融の舵取りを上手くやって、10年前のような暗黒時代を繰り返さないようにしてもらいたいと思うのです。

 ・・・と、今回はずいぶん前置きが長くなってしまいました。早速前回の続きをお話しいたしましょう。

 さて、前回、「科学」には「誤りを訂正する手続き」が含まれているというお話をしました。
 つまり科学には「人間は過ちを犯す」事が暗黙の前提条件として含まれており、それだからこそ、引き続く者たちが先駆者の過ちを訂正できるような仕組みが組み込まれていると考えられます。

 では、非科学とはどういう事を指すのでしょう。
 おそらく「特別な人は過ちを犯さない。(だから検証しなくても良い)」と言うことが無条件の前提になっているのでしょう。
 しかし現実の世界では人が「過ちを犯す」姿が頻繁に見られているわけで、「現実」と「無意識の前提条件」にどの様にして折り合いをつけているのでしょう。

 おそらく非科学には「超人思想」があるのだと思われます。
 つまり、人でありながら「人を超える絶対性を獲得することがあり得る。何らかの手段で無謬の存在になることができる」という前提条件をおくことで、「無謬の存在」は行動のすべてが常に正しいため、一度無謬の存在になってしまえば、それ以降は行為の正誤について考える必要がなくなるというわけです。

 世界史に関しては完全に素人なので想像でしかありませんが、中国の「科挙」には超人思想が含まれていたのではないでしょうか。
 
 科挙の競争率は恐ろしく高いもので、おそらく歴史上もっとも過酷な試験であったと聞いています。
 しかし、この科挙は日本の医師・薬剤師の国家試験などとは全く性格が異なるものだったでしょう。
 現代日本で行われている資格試験は、まさに「その業務に従事する資格があるか」を問うもので、試験の内容も実務を行うに足る能力を備えているかを判定するために行われます。
 当然、現場で新しい知見が得られた場合、学問レベルでその知見は吸い上げられ、科学の目で厳しく審査された上で、有用とあれば新しくテキストに加えられることになります。

 それに対して科挙の場合、試験の模範解答の基礎となるテキストとして「五経正義」がもちいられ、そしてこれはある時期改訂が行われなくなったと聞いています。

 また科挙官僚の選抜基準として、詩作や作文の知識を持つ事を最大の条件とたため、実際の政策運営に必要不可欠なはずの経済や治山治水など実務や国民生活には無能・無関心な人物ばかりが選ばれることとなった、と世界史で学習した記憶があります。

 これも考えてみればおかしな話で、政府の政治活動に必要な人材を選別するための基準が、実務に疎い人物ばかりを選び出すようになっているのです。

 しかし、これは前近代の国家が遅れているとかそれだけのことで済む問題ではないというに思うのです。

 おそらく科挙は「超人選抜装置」なのです。当時の文化的基準によれば、科挙を通過した人物は超人とみなされていたのでしょう。実際に猛烈な試験競争を乗り越えてきたのですから、少なくともペーパーテスト上の優等生であることは疑いがありません。

 科挙を通過した有能な人物であれば、その人物の「言うことなす事」すべてが正しい。
人民は超人にして無謬の存在である「科挙官僚」に無条件で従えばよいと。

 そして無謬である以上、検証の必要などあるはずがないのです。なにしろ科挙を通過した「超人」なのですから。
 つまり「科挙に合格する」ことは、人でありながら人とはランクの違う存在になったという事を意味したのだと思います。


実際、宮崎市定氏の「科挙 中国の試験地獄」には、

(科挙の)郷試に合格したという知らせを受けたある人物が正気を失っていまい、「合格だ合格だ」とさけんでそこらじゅうを走り回るようになってしまった男の話が紹介されています。
 この男をを正気に返すために、「普段からこの男を殴りつけている舅が、今回も殴りつければよいだろう」という話になったとき、その舅が
「だめだ。こいつはご免こうむる。壻は壻だが今日からは挙人様だ。挙人になると上は天上の星に応ずると言うではないか。天上の星を殴りなどしたら、閻魔王に連れて行かれて百の棍棒を食わされたあげくに、十八層地下の地獄に押し込められて末代浮かばれぬわい」
といっておそれたという話でした。


 これで、科挙の試験内容に実務的なものが一切含まれていなくても問題にならない理由の一端が明らかになったかと思います。

 つまり超人は実務的な内容に関して一切の知見を持たずとも、行うことのすべてが無謬なので、特に改めて実務的な内容を学ぶ必要など無いと言うことなのだと思います。

 現在でも「国家の指導者は無条件で無謬、かつ超人的な能力の持ち主であり、その人物に盲従することが、国民の正しい姿である」と思いこんでいるとおぼしき政治風土を持った国があります。
 おそらく前近代国家的・非科学的な考え方で政治を行っているのでしょう。少なくとも政治を科学的に考える事がまだできない状況なのでしょう。

 そしてここまで思考を進めてきて、異常なまでに試験にエネルギーを注ぎ、勉強と言えばテキストの内容をひたすら暗記させる(学んだことを社会で活かす事が学習の目的に入っていないように見える)国が存在するわけを理解したように思いました。

 政治が非科学である国では、難しい試験を通過し名門と呼ばれる大学へ進学することは人として高級な存在になると言うことであり、人として高級であるならば格下の人間に対してどれほど傍若無人に振る舞ってもよい。人としての価値は試験で決まり、実際に社会にどれだけ貢献したかはよほどのことがない限り考慮されない。このような社会体制なら、どれだけ受験勉強に労力を費やしても、過剰投資と言うことはない、と言うことになるのでしょう。

 さいわい日本には「日々学び続けること、学んだことを活すこと」は正しいとの共通認識があると思います。
 この向上心と謙虚さがある限り、日本はまだまだ新しいものを生み出し続けることができる…。僕はそう信じているのです。

(Biological Stories<第62回>終わり。文責:上田@生物)


From 住吉校の部屋

新緑の季節ですね〜

 こんにちわ、松本孝です(^0^)

 桜の季節が終わり、いよいよ新緑の季節になりつつありますね♪これだけ良い天気が続くと外で走りたくなるのは、自分だけでしょうか?(笑)

 さて。
 4月期授業もいよいよ第2週目に突入していますね。授業の雰囲気に慣れてきましたか?

<高1、高2生へ>
 休館期間明けに第1回到達度判定試験があります。この期間は恐らく学校の宿題や部活が忙しくなると思われますので、今のうちから対策はしておくようにしましょう!決して「やっておけばよかった・・・」と後悔することのないようにだけ注意しましょうね!
(^^)b

<高3生へ>
 第1回研伸館センター模試が6月にあります。自分なりに目標は立てていますか?
 ただ漠然と「〜割取るぞ!」とするのではなく、各科目ある程度細かく目標を設定して、それを達成するには何が必要かを考えて対策をするようにしましょう!
 具体的に・・・
  .札鵐拭偲侘橘腓硫鬚なおし×3回
 ◆maッthMATHを解く(苦手単元重視)
  自分が持っているマーク形式の問題集を解く
の3つを基本としてあげておきます!!

 以上、松本孝でした(^^)v


From 三田校の部屋

2009年04月15日

Biological Stories<第61回>


第61回 神の言葉(1)

運命というのならまだしも、宿命というのは実に嫌な言葉だね。

二重の意味で人間を侮辱している。

一つには状況を分析する思考を停止させ、
もう一つには人間の自由意志を価値の低いものと見なしてしまう。


田中芳樹著 「銀河英雄伝説」より



 …唐突な書き出しで申し訳ありません。
 ほんのさっきまで全く別の題材で原稿を書いていたのですが、書いている途中で書きかけの原稿の内容と先週の原稿の内容がひとつになって、長年抱いてきた疑問の解決の糸口をつかんだように思えました。
 というわけで先ほどまでの原稿は全ボツ(涙)にして、いまから新たにお話をしたいとおもいます。

 それにしても、「教えることは学ぶこと」とはよく言ったものです。

 うまく説明をしようと思索を巡らしているうちに、伝えようとした事柄以上の何かを理解する事がありますが、今回それが起こったように思います。

 ただ、すこし長くなってしまいそうです。きっと今週分の紙面では語り尽くせないでしょう…。
 文頭の引用文が、この後とつながらなくてもお許しください。何週間かかけてすべてを語り終えたときにはきっとつながっているはずですので。

空想・妄想・欺き

 先週、「言葉で表現できる事象」は、「現実に起こりうる事象」よりも大きいというお話をしました。

これを図で表したものが以下です。


Blog61_image1.gif


(注)先週は「現実に起こりうる事象」・・・「リアル」
 「現実には起こりえない事象」・・・「ファンタジー」と表現しています。

 科学とは、現実に起こった(起こりうる)事象を、「現実に起こりうる事象」のみで説明する思想体系です。現実に起こらない事象は、科学の世界では「誤り」と言うことになります。
 ですので「科学」には、手続きとして「現実に起こらない事象」を排除するシステムが組み込まれています。
 つまり「誤りを正す手続き」が組み込まれていない知識体系は誰がなんと言おうと「科学」ではありません。いかに知識を膨大に蓄えていようと、どれほど古くから積み上げた体系だろうと、「誤りを正す手順」がない限りそれは絶対に科学ではあり得ないのです。

 さて、この「誤りを正す手順」にもルールがあります。
 「同じ条件、同じ手続きで行えば、誰が行っても同じ結果になること」です。

そしていくら手続きを厳密に規定してあっても、同じ条件・同じ手順を守ったにもかかわらず行う人ごとに違った結果が出るものは科学ではありません。

たとえば

3+4= 7
3×4=12

これらの式は科学のルールにのっとっています。単なる宣言文ではありません。
 3+4は単に7であると宣言しているだけでなく、実際にリンゴを3個、リンゴを4個用意して、同じバズケットに入れて数えてみれば7個あるということを誰でも確認できるからです。
 3×4の場合も同様で、3個のリンゴの入ったバスケットを4個集めてきて、中のリンゴが合計何個あるかを確認すれば、誰でも同じ結論に達することができますし、

3×4=17

などと間違ったことを主張する者がいたとしても、実際に演算が指示するとおりの内容を行ってみせれば、誰もが同じ結論にたどり着き、誤りに気づくことができます

 つまり、科学の手続きを理解することは、「現実に起こりうる事象」だけで現実に起こったこと(起こりうること)を考察し理解する力をつけることになるのです。

 ところで、先週の原稿では図中の「現実には起こりえない事象」のことを「ファンタジー」と表現しました。
 この「ファンタジー」は以下のように分類できると思います。

・ 誰にとっても特に利害のない「ファンタジー」を思い浮かべること … 空想
・ 自分だけが利益を得るような「ファンタジー」を信じ込むこと … 妄想
・ 自分だけが利益を得る「ファンタジー」を、他者に吹き込むこと … 欺き

と言うことになると思います。

やはり紙面がつきてしまいました。次回以降もまたお話ししたいと思います。

(Biological Stories<第61回>終わり。文責:上田@生物)


From 住吉校の部屋
  

2009年04月13日

4月授業スタートです!

 こんにちわ、松本孝です!(^^)

 久しぶりの更新です(汗)

 今日から4月授業がスタートします!
学校の授業もスタートしているので、両立が難しいと思います。
ですが、焦らず目の前にある事をひとつずつこなしていくようにしましょう!
v(^0^)v

<高1、高2生へ>
 5月には第1回到達度判定試験があります。まだ試験まで1ヶ月ありますが、あっという間に試験日になります。もう「今」からコツコツ対策をしていくようにしましょう!ここで勉強のペースを掴むのが大事ですよ!p(^^)q

<高3生へ>
 センター数学登竜門お疲れ様でした。今日から徐々に成績を返却していきます!授業内でもお話しましたが、成績次第では色々コメントしていきますから、覚悟して下さいね( ̄ー ̄)
 また、6月には研伸館センター模試があります。今回の内容をしっかりマスターしてから模試に臨んでください!(・ω・)ノ もし、何をしたら良いのか分らない場合は遠慮なく相談してください!

 以上、松本孝でした!

From 三田校の部屋

2009年04月08日

Biological Stories<第60回>

第60回 科学の言葉

 とうとう春期講習が終わりました。希望に満ちあふれた新学期が始まることと思います。
いかがおすごしでしょうか。
 こちらも春期講習で、約1ヶ月ぶりに中学生課程の皆さんに物理化学を講義してきました。
 今日はその中学生課程の初日に2分ほど話した内容に少し言葉を加えて、大人向きの話題としてお話ししていきましょう。

科学のための人工言語

 我々が科学的思考(特に討論を行う場合)あるいは科学的操作を行うとき、微妙に一般的な日本語と違う人工的な言語を用います。
 この人工言語は日本語の文法規則に従い語彙の面でも相当部分自然な日本語と重なっていますが、明らかに異なる特徴を持っています。
 その人工言語で使われる単語は「technical term」と呼ばれます。(terminology:学術用語とも呼ばれますが、僕はその言い回しには出会いませんでした。ただ、分野によっては違うかもしれません)一般的には「専門用語」あるいは」「技術用語」などと訳されます。
 ふつうの日本語は、話されていくうちに意味が変化したり固まったりしていくもので、たとえある時代に「正しい意味」があっても永久にそれが正しいわけでなく、話し手たちの意識が変わると意味が変わってしまう事があります。
 それに対して技術用語は意味や用法が数式のように厳密に定義されています。それはちょうど数字や数学で用いられる演算記号のすべてが厳密に意味や用法を定義されているのと全く同じです。

 ところで、なぜ、専門用語は厳密に定義することが必要なのでしょう。
 それを理解するためには、科学と言語の関係を理解せねばなりません。

サイエンスとファンタジー

  我々が使う日本語はきわめて柔軟な言語です。
 そのことは実際の世界で起こる事象と、言語の世界で表現できる事象を比較してみると気がつきます。
 なんと言語の世界では、現実の世界では決して起こりえないような現象でさえも、表現できてしまうのです。
 以下にその例を挙げてみましょう。

1.手のひらから撃ち出された青い炎は、長い尾を引きながら飛んでいった。
2.呪文を唱え精神を集中すると、体がゆっくり浮かび上がった。
3.死んでいたS型菌をR型菌と混ぜると、大部分が生き返った。
4.周囲の大気の温度を5度低下させ、そのエネルギーを集めてコーヒーを温めた。
5.東京大阪間を30分で移動した。
6.来週、木星に行く予定だ。

 これらはいずれも現実には起こりえない事象です。以下、現実に起こりうる事象を「リアル」、言語で表現可能であるが現実には起こりえない事象を「ファンタジー」とします。
 科学は、徹底的に「リアル」を扱います。
 科学とは現実に起こりうる事象を、現実に起こりうる事象つまり「リアル」のみで解釈・説明することだからです。
 ですから、現実に起こった事象を「ファンタジー」で説明してしまえば、それは科学ではありません。

 たとえば「死んだものは生き返らない」、これは「リアル」です。「死んでしまったものでも生き返る」これは「ファンタジー」です。

 ですので3.は「ファンタジー」です。煮沸殺菌したS型肺炎双球菌と、生きたR型肺炎双球菌とを混ぜて「生きたS型肺炎双球菌」が現れたとしても、「死んだものは生き返らない」のが「リアル」である以上、生きたS型肺炎双球菌は、死んでいたS型菌が生き返ったものではないと解釈することが科学的に正しいのです。

 また4.は「エネルギー保存の法則」すなわち熱力学の第一法則に基づいたファンタジーです。

「熱力学の第1法則(エネルギー保存の法則)」
系(閉鎖系)の内部エネルギーUの変化dUは、外界から系に入った熱δQと外界から系に対して行われた仕事δWの和に等しい。

 このルールにだけ従うと、閉鎖系のエネルギーの総和が変化しないのならば、部屋全体の温度を下げる代わりに、コップ中のコーヒーの温度だけあげることも可能なのではないか?と考えることもできてしまうのですが、これもリアルではありません。
 なぜなら、現実世界では、エネルギー保存則とともに熱力学の第2法則が働くからです。

「熱力学の第2法則(クラウジウスの原理)」
熱を低温の物体から高温の物体へ移動させ、それ以外に何の変化も起こさないような過程は実現不可能である。

 つまり、4.は現実には起こりえないことになります。

 言語の世界から「ファンタジー」を締め出し、「リアル」だけで言語を構成する。そして言語を「リアル」の世界に縛り付けるために様々な約束事を勉強していく。これこそが、科学の教育なのです。
 この科学の世界のルールを厳密に実行することで、現実と言語世界にズレを生じさせない、これが「科学のための言語」の存在目的だと考えてください。
 
 ところで、5.6.は現代ではファンタジーです。
しかし、明治時代なら「東京大阪間を3時間で移動する」、「空を飛んでアメリカに行く」も立派にファンタジーでしたが、今はファンタジーではなくなっています。

 つまり、ファンタジーの中にはリアルに変化する可能性のあるファンタジーも存在するのです。
 そしてそのような「実現可能なファンタジー」を「リアル」に変化させる仕組みを我々は

★★ テクノロジー ★★

と呼んでいるのです。
 そして、テクノロジーはサイエンスが存在する前から存在していましたし、サイエンスの支援なしでもある程度発達することができます。

 しかしサイエンスの裏付けがない場合、テクノロジーの向上は、試行錯誤のみに頼ることになるため進歩にコストがかかりすぎますし、ある程度以上に進歩できない事にもなります。

「夢を叶える」、
…これを、夢=ファンタジー、叶える=リアルへと転化させる事だと考えると、科学を学ぶことは、まさに夢への道を開くことだということになるのです。

(Biological Stories<第60回>終わり。文責:上田@生物)


From 住吉校の部屋
 

2009年04月03日

Biological Stories<第59回>


          第59回 多産多死
 
 前回、数日暖かい日が続いたあと、また寒の戻りでさむくなってしまうのでは無いかと心配しましたが、心配したとおりになってしまいました。
 さて春期講習すっかり終盤戦ですが何ヶ月分か暦が巻き戻ってしまったのかと思うほどの寒さです。みなさんは風邪などお召しになってはいませんか?
 春期講習終了後には、各教科とも受講生の皆様の実力をさらにUPさせるスペシャル企画を用意しておりますので是非是非ご参加くださいませ。

 ところで生物科では,春期講習は「発生」をテーマに新しい命ができあがっていく過程を扱っております。
 もし時間の都合で春期講習を受験できなかった方も、研伸館なら安心です。
 この春期講習での講義内容はすべてVODというシステムによって映像データ化され、西宮・上本町・学園前・豊中・高の原などで視聴可能になっておりますので、うまく時間を都合して早いうちに受講するようにしてください。

 クラブが終わってから…とか、副教科は秋になってから…とか、やらなければならないことをどんどん先送りしてしまう生徒さんが毎年いますが、だいたいの場合において良い結果には結びついていないようです。春のうちから計画的に学習を進めていきましょう!

r戦略とK戦略

 いきなり聞き慣れない用語が出てきて面食らったかもしれません。
 この用語は生物の繁殖戦略を表す用語です。
 どの生物も子供を作って遺伝子を未来へとつなげていくわけですが、子供の数が生物種によってずいぶん違うことに気がつかれましたでしょうか?
 
 我々のようなほ乳類あるいは鳥類などは、一度にさほど多くの子を作ることはできません。
 それに対して海に住む魚や、海産の無脊椎動物などは一度に大変たくさんの卵を産みます。

 たくさんの卵を産む生物は我々の感覚では何となく下等な動物に属するものが多く、子供を少数しか作らない生物は我々の感覚で言うと高等な動物が多いので、なんとなく生物が進化するに従って子供をどんどん作らなくなっていき(しかも個体ごとの寿命も延びる)、進化の頂点に立つと子供をほとんど作らず寿命もきわめて長くなる…というようなイメージを持つ方が多いのではないかと思います。
 
 実際には生物としての高等さと、寿命の長さや子供の数は基本的には関係ありません。
特に高等という訳でなくても長寿命の生物はいますし、下等とされる生物の中にも少数の子供しかつくらないものもいるからです。 

 では、子供の数は何によって決まっているかといえば,それはその生物が生息しているエリアにおける環境条件の変動のしやすさなのです。

環境が厳しい世界では動物は子作りに励む

 表題は少し誤解を招きやすい表現かもしれませんが、お許しを…。
 環境の厳しい場所では、生物は多くの子供をつくる傾向にあります。
 環境が極端に変動する場合、比較的好条件の年には多くの個体が生き残ることができる(これを環境収容力が大きいという)のに対し、悪条件の年にはわずかな個体しか生き残る事ができず(環境収容力が小さい)、年によって生存可能な子の数が大きく変動することになります。
 そのような環境で暮らす生物たちは一般に多くの子を産み,そのうちの幾ばくかでも生き残ることを期待する生み方をすることが多い事がわかっています。
 このような多産の戦略をr戦略と言うのです。
 それに対して環境条件が安定している場合、生物は少なく子を産んで死なないように育てまた長い時間生きるという傾向があります。
 多産の生物の場合多くの卵を生むことで子の数を増やすのですが、卵の数が多くなると世話をしきれなくなるため、多産の生物は卵は産みっぱなしにし,親が保護することは基本的にはありません。

 r戦略をとる生物の場合、一番弱い幼少期に親の保護がないため、多くの個体が捕食されます。
 このr戦略では、子供から大人になれる個体の数が本当に少ないかわりに、大人になれた個体はさほど死なないという事になります。
 
 我々からするとこの戦略をとる生物の生き様は過酷と言うか悲惨なように思えてしまいます。マンボウなどの場合、一匹の雌が一度に生む卵の数は3億にも達するのに対し、生き延びて子供を作ることができるのは計算上なんとわずかに2匹でしかありません。
 これは我々の知るどんな宝くじよりも厳しい事になります。

 しかし、この戦略をとる生物はよほど個体数が減ってしまっても全滅しにくいという利点があります。あまりにも子の数が多いため、子供のうちに相当数が食べられてしまったとしても必ず幾個体か大人になれる個体が現れますし、何より非常に親の個体数が減ってしまった状況からでも、子供の生存率がわずかに改善するだけで一気に個体数を増やすことが可能なのです。

 かつて、魚を根こそぎ捕ってしまい漁獲高の激減に泣いたとある漁村が、村全体で2年間禁漁にする取り決めをした事で以前のような漁獲高に戻した、という話をテレビ番組でみたことがあります。
 これも魚が多産多死の繁殖戦略をとっているが故に可能だったことです。
 ほ乳類が減少してしまった場合には、3年間程度の禁猟では個体数を戻すことは難しいでしょう。むしろ一度個体数を減らしすぎた場合、何をやっても個体数が戻らないというのもよくあることなのです。
 
 ほ乳類の少産少死の繁殖戦略の話にたどり着く前に紙面がつきてしまいました…。
このつづきはまた次回に。
 
(Biological Stories<第59回>終わり。文責:上田@生物)
   
 
From 住吉校の部屋