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2009年07月23日

卒業生のみなさんへ

さてさて、卒業生のみなさん。「同窓会」に登録していますか?
もし、していないならば、

https://www.kenshinkan.net/OBsite/application.php

で登録して下さい。

おっと。申し遅れました。今回の文章は祐介が書いております。


同窓会の登録をすると研伸館の情報誌「コムサット」が時々送られてくるようになると思います。

ちなみに、【第4回大学ナビタイム〜近藤と祐介の弾丸トラベラー〜】はコムサット2009年6月号に載っています。

今申し込んだら6月号貰えるかなぁ?同窓会登録フォームの「通信欄」に「コムサット2009年6月号くださーい!」って書いてみたら貰えるかも!

それから。「同窓会ブログ」のコーナーも見て下さいね。不定期で色々な先生が色々な記事を卒業生のみなさん向け(?)に書いています。僕も載っけてますよ。僕のは意味不明だから読み流していいですが……。

この場で突如、卒業生向けのコメントをしたのは、書き込みコメントを見ていると卒業生からのコメントが多いからなんです。いやぁ嬉しいですよ!みんな覚えてくれてるんやねぇ〜!そして、ここを読んでくれているんやねぇ〜!


そうそう。祐介の私事ですが、Aタームに「去年の卒業生」と「一昨年の卒業生」が一緒に遊びに来てくれました!「大学で知り合った研伸卒生」というのも意外と多いようですねぇ!それも何か嬉しい!大学生になってから「研伸館」というワードを出して会話してくれたってことだもんねぇ!嬉しい!

僕の誕生日も覚えてくれていたみたいで、「コアラのマーチ(いちご)」と「コーラ」を貰いました!!

卒業しても研伸館のこと、僕のこと、色々覚えていてくれてホント嬉しかったです!少し目頭が熱くなりましたよ!ありがとう!

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今回はボケなしです。

From 川西校の部屋

大学ナビタイム第4回続編は、もう少しお待ち下さい……。8月になるまでには……。

2009年07月14日

日本と外国のちょっといい話 vol.1

日本と外国のちょっといい話 vol.1
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昨今の報道で「日本は外交に失敗している」などのコメントが聞かれますが、マスコミの報道をいつも疑う私は、ほんとうかよ!って思っていろいろ調べてしまったり…よく授業でもそんな話しますよね(笑)。実は多くの国が日本のことを好きでいてくれています。たまには日本のことを好きでいてくれる国に目をむけてもいいでしょう。何回かにわたって、そうした日本と他の国との友情を垣間見ることができるような話を紹介できればと思っています。
よかったら、コメントしてくださいね。それでは…


《日本とトルコの友情物語》
○サッカーワールドカップの日
今から7年前の2002年、6月にFIFAワールドカップの決勝トーナメントで、日本とトルコが対決しました。残念ながら日本は敗れてしまいましたが、ワールドカップで勝ち進んだ日本はすごくもりあがっていました。
ところが、そのライバルとなったトルコの人たちは、この試合を複雑な思いでみていたそうです。もちろんトルコに勝ってほしいが、日本にも負けてほしくない…
どうしてなんでしょうか。

○イラン・イラク戦争のある日
今から24年前の1985年3月17日、1980年より始まったイラン・イラク戦争は、激化の一途でした。このときイランの首都テヘランにいた日本人は、空爆が続く毎日、恐怖の中をすごしてました。
そういった中、当時のイラク大統領サダム=フセインは「3月19日午後8時をもってイラン上空を飛行するすべての飛行機を打ち落とす」という声明を出しました。タイムリミットは48時間。さらにテヘランに対して無差別攻撃が行われるという話も流れはじめました。イランからは出国勧告がでていました。
駐イラン日本大使館の野村大使は、救援機の派遣を要請しました。しかし当時は政府専用機はなく、自衛隊はイランまで航続できる飛行機をもっていませんでした。また民間機も航空ルートの安全が保証されなければ飛行できないという規定がありました。
当時テヘランに定期便を飛ばしていたのは、イギリス、西ドイツ(当時はドイツは東西に別れていました)、フランス、スイス、オーストリア、ソ連(当時はロシアではありません)、トルコの7社。イランに駐在している日本企業の人々はフライトの予約はそう難しくないことのように思えていました。しかし、翌日に予約したチケットをもって空港にいくと、各航空会社は自国民を優先する特別便としてフライトを行いました。予約をしていた人も、日本人ははじき出されてしまったのです。野村大使は各国の大使に特別機に日本人を乗せてくれないかと依頼しましたが、どこも自国民のことで精一杯で、良い返事はもらえませんでした。
絶望的な状況の中、この時点でイランにいた日本人は約200名。日本が最後に頼ったのは、二つのルート、野村大使とトルコの駐イラン大使のビルゼル氏との関係、そして伊藤忠商事の森永堯(たかし)氏とトルコのオザル首相(後に大統領)との関係。いずれも個人的に親しい、家族ぐるみでつきあいがある、という理由だけの、最後の賭けでした。
森永氏は一縷の望みをかけて、オザル首相に電話をしました。

森永:「トルコ人を優先して救出するのは当然ですが、どうか日本人をトルコ人と同じように扱ってくださいませんか?日本が頼れるのはトルコしかありません…」

ビルゼル氏は、危機の発生以来、トルコ本国政府に日本人の救援をたのんできました。そのビルゼル氏のもとに朗報がとどきました。森永氏が頼んだオザル首相への嘆願が叶いそうだという知らせです。

オザル首相の指示をうけたトルコ航空が救援機のパイロットをつのりました。これは危険な任務であるために会社からの強要はできません。しかしその場にいた全員が手を挙げました。その中のベテランパイロットが選ばれ、イランに旅立ちました。
午後5時に198名を載せた一番機がイランから離陸、午後7時30分に二番機が離陸、こうして日本人215名は、トルコ人スタッフの命がけフライトで助かったのです。このとき自国機に乗れなかったトルコ人もいました。トルコ政府が日本人の救出を優先したためです。飛行機に乗れなかった彼らはフルスピードで車を走らせて3日を要する陸路で脱出。しかし、そのことでトルコ政府を批判することは誰一人いませんでした。オザル首相の決断をトルコ国民がうけいれたのです。

タイムリミットぎりぎりの救出劇…どうしてここまでして助けてくれたのか、その理由は日本政府もマスコミもわかりませんでした。

某新聞は、日本のトルコへの経済援助が理由であるとして解説しました。

後日、日本にいたトルコ大使はその新聞に対して
「純粋に人道的見地からは発した今回の措置を、日本とのトルコとの経済協力に結びつける見方があり、それが貴紙によって報道されたことに深い悲しみを覚えています」
と投書をよせています。つまり、日本から金をもらっているから助けたとか言うな、ということです。

そして理由を短いコメントで発表しました。
「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです。」


○95年前の友情
1985年よりさかのぼること95年、1890年の9月16日、嵐の夜のことでした。和歌山県大島村(現在の串本市)樫野崎灯燈台。この日は紀伊半島沖を進む台風の直撃をうけていました。燈台守の滝沢正浄氏が何も起こらないことを願いながら日誌を書いてたときのことです。
突然、血だらけの外国人が助けを求めて来たのです。いくら日本語で話しかけても当然わかりません。万国信号書を見せると、その血だらけの男は震える指先で、赤地に三日月と星の国旗を指さしました。
「トルコか!」

夜の岸壁は遭難者であふれ、さらに海岸には数多くのけが人たちが流れ着いていました。それまで外国人を見たことさえなかった村人達が、総出で救助にあたり、懸命に看護しました。
比較的元気だった乗組員から詳しい事情をきくと、難破した船はトルコの軍艦エルトゥールル号であることがわかりました。エルトゥールル号は明治天皇へ、トルコの当時の君主(スルタン)アブデュル=ハミト2世の勲章を授与するための使節団として横浜港に入港しましたが、その帰りに台風に見舞われ座礁、沈没してしまったのです。
乗組員は650名、うち犠牲者は587名と、大惨事になりました。中にはトルコの皇族も含まれていたようです。
それでも村人達により69名が救出されました。 
ところが大きな問題がありました。当時の大島村は貧しい村で、痩せた土地に暮らす人々は毎日の魚を捕って食べるのがやっとという半農半漁の村でした。69人もの遭難者に与えるものは、着るものも食べるものも足りない。全裸に近い遭難者のために村民は女や子供の着物まで、ないよりはましだと、ありったけのものをもってきました。またおまけにこの年の漁獲高は少なく、食料も早々に底をついたですが、非常用の米の炊き出しや蓄えていたサツマイモ、さらには非常用に飼っていた鶏をつぶし怪我人たちにふるまいました。
 エルトゥールル号の遭難は和歌山県知事に伝えられ、天皇にも言上されました。さらに美談は日本中に伝えられ、多くの義捐金が寄せられて治療にあてられました。また政府から治療にかかった費用を請求するように言われたが、村人達はそれを受け取らずにすべてトルコ人たちへの義捐金に回したのです。村では埋葬式も行われ、犠牲者を魂を慰めました。

そうした甲斐あって回復したトルコ人たちは軍艦「金剛」によってトルコに帰還することができました。
イスタンブルにつくと、日本側の乗組員が甲板に整列します。トルコ人たちは泣きじゃくりながら、そしてしきりに手を振って別れを惜しみました。

その後日本の新聞各社は義捐金募集などのキャンペーンをはりました。新聞社以外の募金活動も盛んに行われ、総額ではかなりの額に達したそうです。またこれを機に、民間レベルでも交流が活発となりました。
さらにトルコの親日感情を高めた決定的な事件がありました。日露戦争です。南下を進めるロシアに対し、トルコは長年にわたり圧迫をうけていました。そのトルコの敵であるロシアを日本が倒した意味は大きかったのです。トルコでは日本に関する出版物などが増えました。また日露戦争の旅順決戦における乃木希典大将や、日本海海戦における東郷平八郎大将にあやかって、生まれてくる子供に「ノギ」や「トーゴー」と名付ける人が少なからずいたそうです。こうしてトルコの中での親日感情はその後も変わりませんでした(日露戦争が世界中に与えた影響は、入試でも出ますから、またやりますね)。
しかし、第一次世界大戦では、敵になってしまいました(日本は三国協商側に、トルコは三国同盟側に)。それにより、日本の中でのトルコの記憶は次第に風化していきました。
トルコではエルトゥールル号事件のことは教科書にも載っていて、誰もが知っている事実です。
でも私たち日本人は、先人たちの献身的な救助によって生まれた友情を、知らずに育ってきたのです。

○現在のトルコと日本
私たちは学校でこうしたことを教えられることはありません。でも友情は確かに存在します。イランから救出された日本人の商社マンや銀行マンは、トルコで1999年に発生した大地震の義捐金募集に奔走しました。またこのときの日本政府の救援の対応は早かったようです。
最近では、2008年の1月には、両国の親善のきっかけとなったエルトゥールル号の調査がはじまりました。この様子はトルコで細かく報道されているといいます。

串本町には1つの宝物があります。
串本町のトルコ記念館には、2002年のワールドカップで選手が来ていた物と同じユニフォームが贈られました。
このユニフォームは、今も続く日本とトルコの友情の証なのかもしれません。

おわり。

北林@世界史

2009年07月02日

大学ナビタイム【第4回】〜コムサットも読んでね〜

いや、ほら、予備校業界って生き馬の目を抜くようなところなわけですよ。

「成績を伸ばす」とか、「合格させる」とかはできて当たり前のところがあるわけじゃないですか。それ以外にやっぱり、プラスαってのが必要になってくるわけです。そこで僕のようなオッサンなりかけ講師にとって一番怖いのが、「実力をつけてきた若手の突き上げ」なんですよ。

たとえば、江頭2:50分さんも小島よしおが出てきた時はナマハゲに追われた子供のようにガタガタ震えただろうと思うわけです。「おいおい、おれはロングタイツなのに!あいつビキニだぜ!」みたいな。で、その恐るべき「若手の突き上げ」に僕がついに遭遇してしまったんです。今回。

ある日のことです。英語の近藤俊史先生からメールがあったわけです。

「獣医になりたいっていう生徒がいるんで、岩手大学を見て来ます!」

いやいやいやいや攻めますねぇ(島田先生調)。っておかしぃじゃないですか。普通、関西で獣医って言ったら大阪府立大学じゃないですか。ちょっと遠出したって鳥取大学じゃないですか。なんで岩手でがんすか??とはいえ、「大学巡りが趣味」と豪語している僕にとってはこれは驚異です。だって、僕、岩手大学行ったことないですからね。

ここで、「へぇ凄いねぇ、近ちゃん!いってらっしゃーい!」とは言えないわけです。沖縄でも北海道でもなく、いきなり「岩手」をチョイスとは、近藤先生もかなり力をつけてきたと言わざるをえません。しかも、移動手段がJALですよJAL!大学を見に行ってマイルも貯まるとは、さすが留学経験が豊富なグローバル野郎です。僕の大学巡りなんてメインは電車ですからね。「地を這う祐介」と「空飛ぶ近藤」、喩えてみるなら、芋虫と蝶。ここで、近ちゃんの岩手行きを指をくわえて見送れば、僕は「そのうち羽が生えるさ!芋虫だから!」って言って実はダンゴムシだったみたいなことになってしまう。

「マルコったらそのうちローストポークになっちゃうから。アタシ嫌よ。そんなお葬式」
「飛ばねぇブタは、ただのブタだ」

そう。僕だって飛べる。
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ということで僕も同伴しまた。

詳しくは、今週配布のコムサットを読んで下さいね!他の裏話は、その内更新致しますので、ちょこちょこブログを見に来て下さい!

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近藤先生バージョンは「上本町の部屋」で更新予定です。もう少しお待ち下さいね。

From 川西校の部屋