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2009年08月31日

日本と外国のちょっといい話 vol.2 後編

《日本とポーランドの友情物語:後編》
○第二次世界大戦後
戦時下でドイツとソ連によって分断されるポーランドは、戦後復活しますが、冷戦が激化する中1948年には共産党支配体制となり、ソ連の衛星国となります。
ところが、1980年、労働者のストに端を発した、全国的な労組“連帯”を核とする民主化の動きが活発となりました。中心人物のワレサは、初の外国訪問先として日本を選びます。
「日本は大きくて平和で偉大な可能性に満ちた国だ」といい、
ポーランドに帰国後は「ポーランドを第2の日本に」というスローガンを掲げました。ポーランドは民主化に大きく舵を切ったのです。
かつて日本に保護された孤児で、大戦中はレジスタンス組織の中心となり、二次大戦後の過酷なシベリア抑留も奇跡的に生き抜いたイエジは当時76歳になっていましたが、念願の日本訪問を果たし、ワルシャワ日本大使館の駐在武官として知り合った上田昌雄(かつては中佐)にも再開し、懐かしい話に花が咲きました。
そのうち、感極まったイエジは、突然歌い出しました。

もしもしかめよかめさんよ
せかいのうちでおまえほど
あゆみののろいものはない
どうしてそんなにのろいのか

昔ならった歌を日本語で最後までイエジは歌いきりました。そして高ぶる感情でこう語りはじめました。
「かつてのシベリア孤児として、61年振りにみなさまにお会いできたことをうれしく思います。私の仲間の誰もが、ここでこうして感謝の言葉を述べたかったにちがいありません、ですから私は今ここでこうして、その仲間の分も一緒に心からのお礼を述べさせていただきます。ありがとうございました。」
1989年にはベルリンの壁がこわれ、世界を二分した冷戦が終わります。ポーランドでは“連帯”が選挙で圧勝、以後はNATOやEUに加盟して今日に至っています。自由化・民主化の波が、再び日本とポーランドを結びつけました。


○阪神・淡路大震災と現在
第二次世界大戦で敵味方に分かれていたポーランドと日本の国交が回復したのは、1957年のことです。しかしシベリア孤児と日本との関係は、日本の人々の記憶から忘れ去られていました。ポーランド大使を勤めた兵藤長雄氏は、ポーランドでは日本人とわかるととたんに親切にしてもらったりすることが多く、なぜなのだろうと思い、ポーランドの親日の原点を調べ、本にまとめました。孤児の話はポーランド在住ジャーナリスト松本照男氏にはじめて聞かされたというほどで、本当に一部の人しか知らない美談でした。しかしこれで、再び日本でかつての孤児の話が脚光をあびることになります。

1995年、8人のシベリア孤児の公邸訪問が実現しました。日本滞在当時7歳から12歳だった人たちは、全員80歳を超えていました。しかし、当時の思い出は色あせることなく、鮮明に残されていました。思い出話に花が咲きます。日本を離れるときにもらった帽子を持参した人、大阪のカトリック教会から孤児たちに送られたお守り、動物園につれていってもらった思い出、蒸し暑かった日本の夏、畳も枕も硬かったことなどなど…

元孤児の一人はいいます。
「私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の皆さんに直接お礼を言いたかった。でも、(高齢のため)その夢は叶えられません。だから、大使から公邸にお招きを頂いたとき、這ってでも伺おうと思いました。だってここは小さな日本の領土なんですものね。今日ここで日本の方に、私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう何も思い残すことはありません。本当にありがとうございました。」
彼女は体が弱り、ひとりでは公邸に来ることができなかったため、孫に付き添ってもらい、ようやくたどり着きました。
他の7人も次々いいます。「私たちもまったく同じきもちです」。

みなさんの記憶にもあると思いますが、1995年は阪神・淡路大震災の年です。震災で両親を失った被災児たちをポーランドに招いて慰めることはできないか、そう考えて親日家の物理学者フィリペック博士が、親善委員会を立ち上げ、約60名の被災児たちをポーランドに招待しました。
この招待は震災で傷ついた子供たちの心を癒すためのもので、ポーランド各地の協力を得て、ホームステイなど地域での交流が行われました。企業や資産家のみならず、個人からも寄付は協力の申し出が相次ぎました。被災児たちは、歴史的建造物などに触れ、貴重な夏休みをすごすことになりました。
そして2度目の訪問の終盤、ワルシャワ郊外で開かれたお別れパーティでは、震災の被災児と、かつてのシベリア孤児たちとの対面が実現しました。彼らはかつての自分に重ね合わせたのでしょうか、高齢や病気をおしてかけつけました。
「私と弟の人生は、75年前に日本のみなさんに助けられて授かったものです。いつか恩返しがしたいとずっと考えてきました。みなさんの身に起こった不幸を思うと慰める言葉も見つかりませんが、私たちは日本人から受けた親切をずっと宝物のように思って生きてきました…」
「75年前の自分と同じような子供たちがポーランドに来たからには、私たちがかつてどのように助けられたか、親切にされたか、ぜひ私の口からお話したい」
彼らの思いは世代を超えて、被災児たちのこころに染み渡りました。

○孤児、最後の一人
2002年、天皇・皇后両陛下がポーランドやチェコなどを公式訪問されました。このとき、シベリア孤児の生存者の一人、アントニーナ・リロが82年前のお礼を述べる機会があった。みなさん、前編の最初に書いた舞踊合唱団の話を覚えていますか?あの舞踊団の訪日に託して写真をおくったことがきっかけだったといわれています。アントニーナはこのとき85歳になっていました。両陛下に謁見する大役を果たしたアントニーナは、阪神・淡路大震災の被災児たちが成長して10年後に再来日した際も、被災児たちと再開して思い出を語り合ったそうです。
2006年、シベリア孤児の生存者最後の一人であった、アントニーナは90歳の生涯を閉じました。
生前は「日本は天国のようなところだった」と言っていたそうです。ちなみの寿司が大好物であったとか。
実はこのアントニーナは第二次世界大戦中にポーランドのユダヤ人を助けたことでイスラエル政府から表彰されています。
「日本人に助けられたので、今度は私がユダヤ人を助けてお返しした」
日本で助けられた命がまた別の命を救い、そして善意の手をさしのべる…。
日本の先人たちから始まった善意の連鎖がここにありました。

今でもポーランドは「ポーランドを第2の日本に」といってくれてるそうです。礼儀正しくて高い技術をもっていて…だそうです。
“連帯”の指導者ワレサ氏は今年2009年来日いたしました。
要人との会談の予定もない私的なものだったそうですが、
「日本の技術は素晴らしい。すぐれた産業と文化を生み出しており、日本から学ぶことは重要だ。日本を尊敬している」といってくれています。
ちなみにポーランド国内での日本研究、日本語教育は盛んなようです。1994年には浮世絵やマンガなどを紹介する「日本美術・技術センター」が旧都クラクフに設立、その通称は「マンガ・センター」。世界的な映画監督アンジェイ・ワイダ氏も、葛飾北斎など浮世絵の大ファンだそうです。日本の武道もすごく盛んだそうです。

僕はどんな因果か偶然か、日本に生まれたことに心から感謝していますが、みなさんはどうですか?

では今日のところはこのへんで。長い文章、おつきあいありがとうございました。
まだ他の国の話は用意しています。お楽しみに。コメントよろしくね(笑)。

北林@世界史

※様々な本を参考に文章を書いていますが、「 」の言葉は、主に『世界が愛した日本』(竹書房)から引用させていただいてます。

2009年08月30日

日本と外国のちょっといい話 vol.2 前編

最近の私の車の中でのテーマ曲はスパルタンX(プロレスラーの故三沢光晴さんのファンでした)、そして京大論述世界史スパルタン、9月からの東大論述世界史スパルタン担当、そんな「スパルタン」だらけのチーム・スパルタン、北林です。こんにちは☆
そんなわけで先生たちもスパルタンに並々ならぬ情熱をかけています、9月からともにがんばりましょう!

東大スパルタンは9月開講!
http://spartan.kenshinkan.net/todaiSP/
京大スパルタンはセカンドクールと続きます!
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では第2弾です。今回は前編と後編となっています。
ちょっと長くなりますが、おつきあいください。
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《日本とポーランドの友情物語:前編》

1999年8月、“ピアノの詩人”と呼ばれるショパンを生んだポーランドから舞踊合唱団が来日しました。彼らは演奏以外にある重要な役割を果たそうとしていました。それは、ある人物のメッセージを日本に伝えることです。
「20世紀の初め、私たちポーランド人孤児は日本のみなさんに救われました。シベリアの劣悪な環境から救い出し、日本を経て祖国に送り届けてくれました。私たちは親切にしていただいたことを決して忘れません。このたびの合唱団は私たちの感謝に満ちた思いを、みなさんに届けてくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう」
このメッセージを日本におくったのは、ヘンリク・サドスキ(当時88歳)と、アントニーナ・リロ(当時85歳)。
彼女たちは日本とどのようにかかわったのでしょうか。

1920年、第一次世界大戦後の7月20日、ロシアのウラジヴォストーク港(東方支配という意味!)から日本の敦賀にむけて船が出航しました。このウラジヴォストークは不凍港を求めて南下政策を採っていたロシアが念願叶って建設した、シベリアからの海の玄関口です。
シベリアは、当時ロシア領にあって独立運動を展開していたポーランド人の流刑地という側面をもっていました(ポーランドは19世紀にロシア領となっていました)。1917年にロシア革命によりロシア帝国が崩壊すると、各地で内戦となり、その混乱に乗じてポーランドは独立を果たし、そのままポーランドとロシアは交戦状態(また授業でお話します)になりました。このときシベリアには祖国に帰りたくても帰れない人たちが10万人以上いたのです。

中でも親を亡くした孤児たちは、どこにも行き場のない状態…。その悲惨な様子をみて組織されたのが、政治犯救済活動家であったアンナ・ビエルキエヴィッチ女史を会長、ユゼフ・ヤクブケヴィッチ医師を副会長とする「ポーランド救済委員会」でした。
せめて子供たちだけでも救いたい、そこで脱出ルートをどうするかが問題でした。シベリア鉄道は戦争中なので使えず、戦闘中の祖国にいきなり戻っても孤児たちには帰る家もない。アメリカのポーランド系移民に救援を求めたが、混乱の続く世界情勢の中、各国の対応は冷めたものでした。

そこで委員会のメンバーの一人が、提案しました。
「日本はどうだろう」
「私の叔父は10数年前の日露戦争で招集されて戦い、日本に捕虜となったが、数ヶ月の捕虜生活の間、見知らぬ日本人にとても親切にしてもらったことを話してくれた」
次々と日本にしてもらったことを話はじめました。日本はロシアを日露戦争でやぶったことにより、良い印象を持たれていました。
アンナはいいます。
「日本は日露戦争でロシアを破った国ですもの。かつてはロシア、今はソヴィエトのために苦しんでいる子達のことを日本人が知れば、きっと助けてくれるでしょう。」
アンナは直ちに日本に向かい、外務省にシベリア孤児の惨状を訴えました。1920年6月のことです。

アンナの訴えは日本政府を動かしました。外務省は赤十字社に孤児救済を依頼、アンナが訪れてから17日後の即断でした。
ポーランドはまだできてまもなく、またソ連との戦闘状態でもあり、正式な国交はありません。しかも祖国と分断された民間人からの依頼です。救済事業は手間や費用もかかりますが、当時の政府は即決したのです。

こうして第1陣がウラジヴォストークから敦賀を経由し東京渋谷の慈善団体の宿舎に収容されました。これを手始めに5回に渡り、375人の孤児たちが日本にはこばれていきました。

「あんなに人から優しくされたのは初めてでした。日本の子供たちも私たちが寂しがらないよう、一緒に遊んでくれました。それがとても楽しくて、仲良く遊んでいる間は両親のことも思い出さないほどでした。たった2ヶ月の滞在だったけど、日本は私たちの第2の故郷です」
「日本に着いたとき、ひどい皮膚病にかかっていた私は全身に薬を塗られました。まるでミイラみたいに包帯をまかれて、看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは私をベッドに寝かせると包帯から顔だけ出している私の鼻にかるくキスをしてにっこりほ微笑んでくれました。それまでずっとひどい目にあってきた私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました。」
看護にあたった人だけではなく、日本国民は孤児の経緯を知って、物心両面で温かい関心をよせました。寄付金、おもちゃ、お菓子などを贈る人が後を絶たず、医療や散髪などのボランティア、音楽団の慰問なども申し出が耐えませんでした。

子供たちが健康に戻れば、帰国が始まります。8回にわたって帰国事業がアメリカ経由で行われました。この間、貞明皇后(大正天皇妃殿下)が日本赤十字病院を訪れ、孤児たちにお声をかけられました。親のぬくもりを忘れて時間がたっている子供たちを抱きしめ「お母さんはいつもどこからかあなたを見守っています。どうぞ健やかにお育ちなさい」と何度も繰り返されました。
このぬくもりを当時の孤児たちは生涯忘れなかったようです。孤児のもとにヨットが寄付されたことがありましたが、そのときの一隻に「サダコ」(貞明皇后のお名前から)と名付けたそうです。

その後もまだ孤児の救済は続きます。まだ2000人以上の孤児が残されていました。1922年、再度来日したアンナ・ビエルキエヴィッチ女史の依頼に応じて、2度目の救済事業が決定されました。日本で治療をうけ体力を回復した孤児たちは、帰国の途につきますが、日本の“おかあさん”たちの別れを悲しみ、中には船に乗るのをいやがる子達も痛そうです。当時の孤児は振り返ります。
「誰もがこのまま日本にいることを望んでいました。太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に…」。

帰国して孤児院で成長した孤児の一部は、“極東青年会”を結成します。この会と日本公使館の交流がはじまります。1938年には孤児を助けた日本赤十字社の三島通陽名誉総裁がポーランドを訪れたときには、感謝と感激のあまり、三島氏を何度も胴上げしたとのことです。
しかし平和は長くは続きませんでした。
やがて“極東青年会”は、ポーランドがドイツとソ連により攻められ第二次世界大戦になると、イエジをという人物を中心に次第にレジスタンス組織に変貌していきます。そして、兵力で圧倒的に勝るドイツ軍により鎮圧され、またソ連軍によってシベリアに送られることになりました。
実は大戦中、日本大使館は三国同盟の立場(ドイツの同盟国の立場を)を利用し、極東青年会の活動をドイツから弾圧されないように守ったり、またリトアニア領事館の杉原千畝は、ユダヤ系ポーランド人に対して通行ビザを発行し、多くの人命を救っています。ここでも日本とポーランドの関係が続いていました。

後編に続く…

2009年08月22日

大学ナビタイム【続(しょく)第4回】〜コムサット6月号を復習してね〜

岩手大学の「こぼれ話(?)」を一つ。

岩手大学にはイメージキャラクターがいるんですね。


gan1.JPG


かわいらしいんですが、


gan2.JPG


どうです?この設定。全体的にツッコミどころ満載でしょう。

あぁ。このガンちゃんのマークの付いた岩手大ポロシャツを、岩手大学に進学される方にプレゼントしますよ!受験が終り次第、僕か近藤先生にアクセスして下さい。先着順です。岩手大ポロシャツ→Tシャツ→宮沢賢治のクリアファイルの順でプレゼント!


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はい、ということで。いやぁ、もぉ、お待たせしました。コムサット6月号の続きでございます。近藤先生と岩手にいった頃は、岩手には杉花粉が飛んでいて死ぬかと思いましたが(祐介先生は花粉症です)、もう8月下旬ですね〜。まるで夏休みの宿題を溜めているこんでいる小学生のような「後回しぶり」でブログのアップを遅らせてしまいました。ゴメンなさい。


いやぁ〜。夏も終りですよ!甲子園も終わっちゃいますよ!


甲子園といえば、近藤先生は高校野球が好きなようなので、「いわて花巻空港」から近かった「花巻東高校」に立ち寄りました。


hamakihigashi.JPG


普通の高校でした。(←高校野球に興味のない祐介の感想)


それから、コムサット6月号には「岩手大学」しか載せませんでしたが、
実は「岩手県立大学」にも僕らは訪れているんです。


IPU.JPG


略称はなんと言うのかを学生さんに聞いてみたら「普通に『イプ』ですけど……」と言われました。


「普通に??????いぷ???????????」


岩手県立大学=Iwate Prefectural University=IPU=イプということのようですねぇ。しかし、「普通」なんだ……その略し方が。学生からしたら……。


では。岩手の話は終りにして「コムサット6月号」の続きとして「青森へ向かった話」をしたいと思います。

「コムサット6月号」の内容は忘れた人は、もう一度復習しておいて下さいね!

kousoku.JPG


僕と近藤先生は岩手の大学巡りが思ったより早く終わったので、その足で青森県十和田市に向かいました。青森県十和田市には研伸館からも毎年数名入学者が出る、名門「北里大学」があります。


北里大学の「学祖」は「北里柴三郎」。知っていますよね?第1回ノーベル生理学・医学賞の「候補」にもなった人です。まぁ、このノーベル賞に漏れたことについては、当時の国際社会での東洋人、黄色人種の立場というのが云々という微妙な話がついてまわりますので避けますが……。「日本の細菌学の父」。破傷風菌の純粋培養に成功して血清療法を確立した素晴らしい人物です。
(※おっ!日本史受験のみなさん!夏期講習の「日本文化史特講」受講しましたか?いまからでも遅くない!VODで!是非!)

ちなみに、北里大学の校章のデザインは「破傷風菌を図案化したもの」だそうですよ。北里柴三郎は福沢諭吉と交流が深かったそうです。諭吉が亡くなった後には「慶應義塾大学医学部」を創設して初代医学部長にもなっています。そして大日本医師会の初代会長、日本医師会の初代会長。さらに医療機器・医療器具の製造・販売会社で、医薬品製造企業「テルモ株式会社」の筆頭設立発起人です。テルモって知ってますでしょ?テルモ製の体温計はどこの家庭にも一回は置いてあったことがあるんじゃないかなぁ。


おっとだいぶ話が逸れました。慶應医学部の話は別の機会にしましょうか。北里大学に話を戻します。


kitazato.JPG


そうそう。「青森県十和田市には『北里大学』があります」という内容を前述しましたが、北里大学のキャンパスは、<相模原キャンパス(神奈川)・三陸キャンパス(岩手)・白金キャンパス(東京)・十和田キャンパス(青森県)>と色々な場所にあるんです。本部は白金キャンパスだったかな?


だから、北里大学に進学を考えている人に注意
たとえば

○獣医学部は一年次は相模原キャンパス(神奈川)ですが、2年次以降は十和田キャンパス(青森)、

○海洋生命科学部も1年次は相模原キャンパス(神奈川)ですが、2年次以降は三陸キャンパス(岩手)

になるんですよ。年次によってキャンパスが<大きく変わる>学部があるので、親御さんと十分話し合って入学を考えて下さいね。


さてさて、その名門北里大学の十和田キャンパスに僕と近藤先生は訪れたわけです。大学の関係者の方にお話をしたら快く大学内を見せて下さいました。突然お邪魔したのですが、親切に対応して下さいました。北里の獣医学部は、牛および馬を中心とした大動物医療も行っているそうで……馬がいました……僕、正直、動物苦手なんで……引きました……近藤先生は平気そうでしたが……講義中の教室の横を通らさせて頂きましたが、かなり熱心に学生さんは授業を聞いてらっしゃいましたね。ホントに真剣でした。


しかし、<八甲田連峰を臨む十和田の大自然の中で、人と自然との調和と共存という視点から「動物生命科学」を学びます>と北里大学のホームページに書いてありましたが、「自然との調和と共存」を勉強するには、たしかに東北は最高の環境だと思いますね。そうそう。十和田といえば、十和田湖。


towadako.JPG


6月といえども冷たそうな湖。その姿は「畏れ」と「美」を感じました!凄い綺麗!

以上。6月コムサットの続きでした。

コムサット9月号にも近藤先生と一緒にどこかの大学に行ってきます!

卒業生のみなさん!「同窓会」に登録するとコムサットが貰えるみたいですよ!

https://www.kenshinkan.net/OBsite/application.php

で登録を!

そうそう!コメントを下さった現役獣医学部の卒業生さん!ありがとう!「帯広畜産大学の獣医で馬と戯れる毎日送ってます」と書いてくれた川西の卒業生さん!「真剣に臨床に行きたいなら麻布なんかがオススメです♪府大は研究が強いです」と教えてくれた豊中の卒業生さん!そんな書き込みも大歓迎です!

「うちの大学に来て下さい!」という卒業生の声も待ってます!そして、「うちの大学はココが凄い!」なども書き込んでくれると嬉しいです!現役生が参考にできるような大学情報を是非!

From 川西校の部屋