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2007年05月25日

英語deエイガ26 試写会に行ってきました4 「女帝・エンペラー」 6月2日ロードショー

〜チャン・ツィー、悪役に〜

チャン・ツィー主演最新作。シェイクスピアの「ハムレット」を中国の五代十国時代にアレンジしている。リーは自分の兄である皇帝を暗殺、自分が皇帝の座につき先代の后チャン・ツィーと権力を手に入れた。あとは次の皇帝となるはずの皇太子も暗殺し、皇帝の座を奪われないようにするはずだったが失敗に終わる。現皇帝を仇とするチャン・ツィーと皇太子はどう動くのか…。

おなじみワイヤーアクション(体をワイヤーで吊って、アクションするやつですね)炸裂の中国映画、と言ってしまっては元も子もないが(実際アクション監督は「マトリックス」も担当したそうで)、やっぱりもうこの手のアクションはもう見飽きたなあという感がある。チャン・ツィーもがんばっているけど彼女の美しさは活かされてはいない。原作も「ハムレット」と公言しているからパクリと言ってしまえばそこまでだし。新しく皇帝になったリーがチャン・ツィーを「皇后と呼ぶべきか、皇太后と呼ぶべきか」なんてセリフも出てくる。まあ、「ハムレット」のパロディーもちょっと期待はしていたけど。

“To be, or not to be, that is the question.” 「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」で有名なシェイクスピアのハムレット。仇のクローディアスの復讐をいつ行うか、王子ハムレットが悩む第3独白である。このセリフはあまりに有名すぎて、イギリスのあるレストランの壁には”To eat, or not to eat, that is the question.”なんていうパロディーがあるとか。今回のポイントは不定詞の否定は直前にnot、ということで。前編中国語の映画で「英語deエイガ」というのも無理がある…。2006中国・香港。(TK)

2007年05月20日

英語deエイガ25 “SPIDER-MAN 3” (スパイダーマン3)

〜スパイダーマンを劇場で観ない人は許さない!〜
言わずと知れたこの映画、劇場の大画面で見ないとその本質は味わえない。街中での追いかけあいはまさにジェットコースターだ。ジェットコースターをテレビで見ても面白くも怖くもないでしょう? 劇場のシートは動かないけどぐわんぐわんとする感覚が味わえるのは劇場だけです。ぜひ「劇場で」観てください。

MJ(キルスティン・ダンスト)はオフブロードウェイだけどやっと主役の座をつかみ、今日は初日だ。ピーター=スパイダーマン(トビー・マグワイヤ)は予約された最前列で鑑賞し、隣の人に「あれ、僕の恋人!」と自慢する。
さて役者というもの、気になるのが翌日の新聞だ。そこには初日の舞台の好評が載っている(よくある場面だ)。しかしそこにはMJを酷評する記事のみ。ピーターは気にするなというが、MJには気休めにしか聞こえない。それもピーターは最近「スパイダーマンのお仕事(?)」が市民から絶賛され自己満足に陥っているのだ。だんだんと疎遠になる二人。そんな彼らに「ヤングゴブリン」と新たな「サンドマン」が襲いかかるのだが…。

このスパイダーマンは娯楽映画ですか? そうですね。普通はそうです。見終わったら「面白かったね〜。MJってだんだん綺麗になってきたね」などというありきたりな会話をしながら、後の食事か何かの話題にのぼるくらいが関の山だ。しかし、今回私が感じたのはこれは「司法」と「キリスト教の愛」がテーマなのだ。

伯父が強盗に殺されたピーターは真犯人(=サンドマン)を見つけ、復讐をしようとする。ヤングゴブリンは父をスパイダーマンに殺されたと思い込み、いつか復讐をしようとやっきだ。しかし伯母はピーターに”We can't say anybody deserves to live or die.”(あいつは死んで当然だとかそうじゃないとかは誰にも言う権利はないのよ)と言う。人は復讐することを目標にすると(スター・ウォーズ的に言うと)ダークサイドに陥り、何も生み出さないのだ、というのが伯母の考え方である。しかし多くの人は自分の最愛の人が殺されると復讐したいと思う。しかし現在の司法では許されていない。これを「殺され損」だととる人もいる。日本では未だに赤穂浪士の話が今でも美談として語り継がれ、先進国では廃止の方向に進んでいる死刑を存続させる世論が多いのは分かる気がする。

この映画はスパイダーマンが伯父を殺したサンドマンに”I forgive you.”(君を許すよ)というシーンと、もう1つの悲しいシーンで終了する(ネタばれになるのでやめておきましょう)。人は自分の「敵(かたき)」と心から話し合い、相手を理解し、そして許す事が可能なのか?

〜今回の会話表現〜
Can I see you? I bet.(「会えない?」「行くよ」)
MJがピーターに電話をかけてくるシーンだ。betは「賭ける」が元の意味だが、そこからYou bet.で「賭けてもいいよ」から「もちろん」という意味で使われる。ここではI bet.「僕は賭けるよ」から「(私は)きっと…する」という意味で使われる。(TK)

2007年05月04日

英語deエイガ24 アカデミー賞受賞作品特集4 「バベル」 原題“BABEL” 2006メキシコ

〜菊地凛子、好演〜

アカデミー作品賞、監督賞(アレハンドロ・ゴンサレス・イリャニトゥ)、助演女優賞(菊地凛子、アドリアナ・バラッザ)、脚本賞、編集賞、作曲賞、各ノミネートの内、受賞は作曲賞のみだけだったが菊地凛子が大きく取り上げられたことでご存知の方も多いだろう。

物語は一発の銃弾から始まる。銃弾はモロッコを旅行中のアメリカ人夫婦(ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット)の窓際に座っていたK・ブランシェットの肩を貫通する。言葉も通じず、病院施設の整っていないモロッコ。一発の銃弾はアメリカとモロッコの政治問題に発展していく。そこに必然的にメキシコと日本が絡み、点と点が1つの線とつながっていくのだが…。

このアメリカ人夫婦は3番目の子供を死に追いやって以来、コミュニケーションが取れない。役所広司と菊地凛子の親子も母を自殺で失って以来、コミュニケーションが取れない。菊地凛子は聾唖のため、健常者とコミュニケーションが取れず恋愛も出来ずにいる。アメリカとモロッコは必要以上な反応のため政治問題に発展しコミュニケーションが取れない。

そして、現代のこの社会で果たしてまともな「コミュニケーション」が円滑に行われている所があるのだろうか??監督はこの問題を投げかけているような気がする。多くの戦争はこのコミュニケーション不足が原因となっているのではないだろうか? 最近の物騒な事件はこのコミュニケーション不足が原因となっているのではないだろうか? 私はそう思ってきたし、この映画でのテーマと私の意見が一致した気がする。

この「バベル」という名詞。やはり聖書から来ている。「英語 de エイガ16」でも書いたように映画にとどまらず、英会話では聖書の知識があってこそ理解できるものがある。これは創世記(Genesis)の有名な以下のくだりが参考になる。

遠い昔、言葉は一つだった。神に近づこうと人間たちは天まで届く塔を建てようとした。神は怒り、言われた。“言葉を乱し、世界をバラバラにしよう” やがてその街は、バベルと言われた。(創世記11章)
(TK)